ニトログリセリン

僕のこころ

六月

 

「ビー玉みたいだね」

そういったのは真也だったような気がする。無限に広がる夜空を見上げながら僕らは星に手を伸ばしていた。川の匂いと水の怒号に感覚を奪われる。二人で寝転んだ河原は湿っていた。
「やっぱり雨上がりに来るんじゃなかった」
「ちょっと背中が濡れたくらいで何言ってるんだよ。こんなチャンス逃すわけにはいかないだろ」
水の音が大きくなる。風が鳴って、細い草から雫が一滴滑った。

 

いつもここで目が覚める。草から滑った雫は僕の頬を伝っていた。外から鳥の声がする。もう高1なのに昼まで寝過ごしてしまう癖は変わらない。今日何日だっけ。忘れるはずもない日を自問自答する。いっそのこと忘れてしまいたい。でもそれは生涯許されない。今日は僕が真也を殺した日だ。

 

3年前の6月。その夜僕は真也と河原に来ていた。梅雨のせいで天気の悪い日が続いていたせいで長い間星を見ていなかった。週5で河原に通いつめては星を眺めていた僕らにとってそれはかなりのストレスだった。日が落ちてから真也に呼び出された僕は心が綿毛みたいにふわふわしていた。真也が僕を呼び出す時は星を見に行く時だけだからだ。
「今日の夜だけ晴れるんだってさ、行こうぜ」
真也もウサギみたいに跳ねていた。
河原は雨で濡れていた。露が草にすがり付いている。月明かりに照らされた露が宝石のように輝いていて、空には星が埋め込まれていた。流石に川が増水している。狂ったように流れる水は生き物のようだった。川原に転がって見上げた天井は今まで見た中で1番だった。空は黒くなかった。先に手を伸ばしたのは僕だった。一番星を掴み取る振りをする。ただ宙を切るだけなのに、僕たちは何度も何度も手を伸ばした。背中が露で濡れていた。
「ビー玉みたいだね」
「死んだ人じゃないの?」
「それまだ信じてんの?」
「そんなわけないだろ」
やっぱりビー玉の話をしたのは真也の方だ。真也は、ククッと笑った。僕も、フッと笑った。

 

「健人、今の見た?」

不意に名前を呼ばれて隣を見る。真也は素早く体を起こして歩きは初めていた。何かを見つけたらしい。水が溢れる川岸にゆっくりと近づいていった。僕はその足跡を踏む。それはまるで何かに引き寄せられているみたいにも見えた。そしてその何秒後かに真也は僕に殺された。

 

「健人、そろそろ起きなさい」
ドアの向こうから控えめな声が聞こえた。母さんも今日が何の日か分かっている。でもその優しさが優しさではないことを僕は知っている。
「今年こそはちゃんと真也くんの家に行くのよ」
心臓が一瞬止まったような痛みに襲われた。軽々しく言ってくれる。僕の気も知らないで。あいつの家に行ったところで真也はもういない。仏壇に真也がいるとでも言うのか。あいつがいるとすれば間違いなくあの河原だ。それなのにわざわざ殺気を浴びに行くなんて意味が無いことだと思った。

 

「人殺し」
それは真也の葬式の時に言われた言葉だ。今でもはっきり覚えている。棺桶にすがりついて泣く真也の母親が赤い目で僕を縛った。生まれて初めて感じた殺気だった。
「どうして真也が。人殺し」
間違いなく「お前が死ねばよかったのに」という意味が込められていた。歪んだ表情には感情が雁字搦めになって刻み込まれていた。母さんと父さんはお前のせいじゃない、と背中をさすってくれた。でも僕にはその優しさが苦しかった。僕は捕まらなかった。こんな事があっていいのか、と僕は自分を責めた。いっそのこと死刑にでもして欲しかったのに、現実は甘くなかった。

 

2年前、真也の命日に家に行った。そこで僕はまたあの赤い目を見た。目は口ほどに物を言う、とはこの事か、とおもった。真也の母親の目にははっきりと「死ね」の文字が浮かんでいた。僕は真也の家の前を通れなくなった。

家の前も通れないのにその家に行くなんて僕の精神が持ちそうにない。元から壊れかけたものが粉砕した時、何が起こるかなんて予想できる。それだけは避けたかった。

 

僕はのろのろと家を出て、アスファルトを蹴った。もう日が落ちかけていた。染まった空は警告の暗示に思えた。梅雨の時期がズレているのか、6月なのにまだよく晴れている。空が汚れたパレットに見えた。懐かしい道は僕を見てぶつぶつと囁いていた。足が勝手に動く。僕の足は真也の元へ向かっていた。

 

気がつくと僕は河原に立っていた。あの時と変わったことといえば、水が穏やかなことだ。恐ろしいほど音を立てない。日はほとんど落ち、空は晴れていた。三年ぶりに見上げた空は酷く汚れていた。

 

あのとき真也は川岸で何を見つけたのか。あいつは水ギリギリまで歩いて行った。何かを拾おうとしたその時、綺麗な露が小さな悪戯をした。もとから細っこかった真也は足を滑らせ、あっさりと川に喰われた。川の水が、目を見開いて酸素を求める真也の体に噛み付いて引き込んでいった。水が真也を完全に引き込む瞬間、真也と目が合った。色のない目が僕を捉える。口が微かに動いていた。
「助けて」
僕は咄嗟に真也の手を掴んだ。冷たい指が絡み付いてくる。引っ張ろうと足を踏ん張った時、水が僕に牙を突き立てた。その瞬間、僕のスイッチが切れた。全てを恐怖に支配され、手の力が抜けた。僕は草むらに飛ばされた。起き上がって見た時には真也はもういなかった。そこには下品に笑う一つの生き物がいた。もう少しでお前も食べられたのに、と嘲笑っていた。僕が再び真也の手を掴むことは無かった。

 

僕は親友を見捨てた。本当に大切なら怯まずに戦うべきだった。真也が嫌いとかそんなことは全くなかったのに、いざとなると自分の身を優先してしまう自分はいかにも人間らしいと思った。真也の死はただの事故だと発表された。僕は内心ほっとしていた。

 

1人、河原に立ち尽くす。空は黒かった。あの日のような美しさはない。星はでているのに、まるで見えない。ただ濃い闇で埋め尽くされているだけだ。水の流れる音がする。
僕は穏やかな川に右足を突っ込んだ。あの時のように襲ってきたりはしない。じわじわと僕の体温を蝕んだ。濡れた冷たい手の感触が全身を這いまわる。六月とはいえど水は冷たかった。水に体中を侵食されていくのはどんな気分だっただろう。遠のく意識の中で真也は何を思っただろう。水の中の右足をもっと深くまで突っ込む。真也はどこにもいなかった。

 

幸せな記憶と不幸な記憶。どっちの方が苦しいものかなんて考えなくてもわかる。
「人は死んだは星になるんだってさ」
まだ小学生だった頃に真也から聞いた話だ。それを聞いてから1週間ほど、僕らは夜道を歩けなくなった。まだなんでも信じる純粋な子供だったから、死んだ無数の人間に上から見られていると思うと震えが止まらなかった。それが嘘だとわかった時、2人で笑いあったのをよく覚えている。馬鹿みたいに信じて怯えながら過ごした1週間はいつ思い出してみても滑稽なものだった。そんな思い出までが僕に刃を向けてくる。笑い合う相手はもういない。

 

「真也、お前はどれなんだ?」
僕は何も見えない黒に手を伸ばした。手探りで真也を探す。
「どうして来ないんだよ、お前がいないと何も見えないんだ」
見つかりもしないものを必死で探す。ここで無くしたものは全て僕の宝物だ。いい加減に零れたものを拭った。水中から足を引き抜く。スニーカーは吸い込んだ水をヨダレのように垂らしていた。滴った水は吸い込まれるように足元に消えた。

 

その時、ふと川岸に光るものを見つけた。こんな暗がりで光るものと言ったら猫の目ぐらいしか思いつかない。猫はいなかった。そっと近づいてみる。草を分けて、覗き込む。そこには冷たくて硬いものが落ちていた。あの日の影が見えた気がした。僕はそれをつまみ上げた。一つのビー玉だった。少しひびの入ったビー玉は透き通っていて今にも割れそうなほど頼りなかった。それなのに今ここにあるどんなものよりも輝いていた。まるであの日の続きをみたような、指先が痺れる感覚がした。
「こんなところにいたのか」
僕はビー玉を握りしめ、歯を食いしばりながら上を見た。零れないように、無理やり睨みつけた空にはさっきまでみえなかったビー玉が沢山転がっていた。
その瞬間、視界が頬を伝った。